有機農業の歴史と農法
有機農業の歴史は、古くはイギリスのアルバート・ハワードに始まり、ドイツではシュタイナーが天体の法則によるバイオダイナミック農法を提唱しました。
日本では1930年頃から、福岡正信や岡田茂吉が自然農法という無農薬無施肥の農法を始めました。
そして、1971年に一楽照男という人が日本有機農業研究会と団体を発足しました。「沈黙の春」でも書かれていたように、この時期日本でも農薬と化学肥料による汚染が広がって問題を指摘する高まりがありました。
この時初めて、日本では“有機農業”という言葉が生まれました。
一楽照男曰く、有機農業とは「在るべき姿の農業」で、私たち、人類がずっと続けてきた「本来の農業の姿」を広げようという思想でした。
では、どういった農法なのか、
国際有機農業運動連盟の有機農法の原理によると有機農業の目標は
- 土壌、動植物と微生物、人及び環境間のダイナミックな相互作用に基盤を置き、これらの有機的な相互関係を信頼する。
- 自然を抑制せず、自然生態系の生活循環を促進する。
- それぞれの地域で入手できる地域内資源の活用と循環を図る。
- 健全で良質の農産物を供給し、かつ営農として成立させる。
- 種の多様性を提供し、土壌構造と土壌肥沃度及び周囲の生態系に配慮するために以下のことを基本とする。
品種
- 化学処理が施された種苗は使用しない
- 遺伝子操作された種苗、植物は使用しない
- 多様な輪作
- 基本的に非永年(草木)の輪作を行う
- マメ科植物、イネ科植物を組み込む
施肥
- 有機質肥料を使う、化学処理肥料は使わない
- 土壌を肥沃にし、土壌内の生物活動を維持、増加させる
- 無機質肥料は自然組成のまま、有機質肥料の補完的に使用する
病害虫と雑草の管理
- 化学合成の除草剤、殺菌剤、殺虫剤、成長調整物質は使用しない
- 遺伝子操作された生物及びその生産物は使用しない
生産管理資材
- 有機質肥料に用いる素材は、自然物または有機農法による生産物を用いる
- ハウス被覆、マルチ、寒冷紗、防虫ネット、サイレージ被覆などに用いる
- 化学合成資材としては、ポリエチレン、ポリプロピレン、その他のポリカーボネート製品以外は使わない、塩化ビニールは使用しない(目標)
- 有害物の風による悲惨、灌漑(かんがい)排水による侵入出を考慮し慣行農法の農場と有機農法の圃場間に明確な境界を設ける
土壌と水の保全
- 有機物の焼却は制限し、できるだけ土に戻す
- 土壌侵食を防ぐ手立てを講じる
- 過剰な施肥、水使用はしない、地表水、地下水の汚染を防止する
野生、天然産物の利用
- 山菜などの採集産物は、持続可能な自然環境を保持できる場合のみ有機として認められる
- 採集地域は、慣行農法の農地または汚染地域から過度に離れていること
などなど、環境負荷のない栽培をしましょう、というのが有機栽培の骨子のようです。
高度経済成長期とともに変化していく農業
1970年代、日本では高度経済成長期で、世界的な第二次グローバリゼーションの流れの中で、経済的な合理性や効率性を優先する慣行農法や慣行栽培と呼ばれる農薬や化学肥料に頼る農業が推進されてきました。慣行農法を批判する人もいますが、日本ではこの時期、急激な人口増加や、都市への人口の流入で、農業を営む人が減っている時期だったので、効率的に国民の食料を賄うという考え方をベースにすればしょうがないかなとも思ってしまいます。
農薬や化学肥料重視の農法は、有機農法が重視する土の力を育てる「育土」という考え方とは全くの正反対に位置します。
有機栽培という考え方をハードコアに捉える人たちにとっては慣行栽培で使う農薬と化成肥料を、有機栽培と呼べるにふさわしい物に変えるだけなんて、慣行栽培の焼き直しに過ぎないと言う人もいます。
本来のあるべき姿
しかし、厳密な意味で考えると、人が食べる野菜たちは、人のエゴによって品種改良されてきた物で、環境にある程度会うかもしれないが、その野菜達が人の手助けなしで自然の中で育つのか?他の野草たちに負けずに生き延びていけるのか?という点ではとても難しいと思います。
自然、本来あるべき姿というものをどう定義するのか?
人の手が入った時点で不自然とも言えるとも思います。
有機栽培、自然農法、自然栽培、などなど、色々な定義がなされていますが、どれも、自分の農法が正しいとか、本来のあるべき姿だとか言いたい人もいます。そしてそれぞれの農法はこうあるべきだというように、それぞれの農法の中でも、いろいろと論争はあります。
あとは差別化してマーケティング的な意味で使っている場合もあると思います。
農薬使わない、肥料使わない、農業資材使わないというと手間はかかりますから、普通の野菜や穀物よりも高く売りたいのも事実ですが。
個人的には、環境と身体が汚染されずに、美味しい食べ物がいっぱい食べられればそれが一番良いのではないかと思ってしまいます。それに農法、手法はその栽培する土地や土に合わせないと失敗するという事を色々な人が経験しているのを見ると、やはり、私たちは自然環境を制御するというのはとても傲慢のような気がします。
しかし、経済的な合理性に洗脳されいる私たちは制御したいと思ってしまうのです。
自己の防衛本能なのかエゴなのかわかりませんが・・・。
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