私たちが美味しく食べている豚にも命がある
昔テレビで、養豚をしているおじさんが
「うちの豚はこだわって、愛情を込めて育てているから美味しいんだ。」
と言っているのを見て、
「??」
となりました。
「愛情を込めて、育てています。」というセンテンスに引っかかりました。
そうはいっても、結局、殺して食べるよな。
と思って、この人、嘘ついているよなぁ、と思った事がありました。
豚の気持ちになったら、今までご飯を毎回出してくれていた親切な優しいおじさんだと思っていた人に、ある時突然、トラックに乗せられて見た事もない施設に運ばれ、そこには自分と同じような豚がいっぱいいて、最後は列に並ばされて一匹、一匹、命を奪われて解体されてしまうのです。
おじさん裏切ったな!!
と豚たちは思っているかもしれません。
事実、私たち生き物は、自分とは違う種を殺して食べる事で生命を保っています。それは動物や植物に限らず、生物全般がやっている事でもあります。
そのおじさんの愛情は豚を食べてくれる人への愛情だと思います。自分が育てた美味しいお肉を食べて欲しいという。
だから、私も野菜を育てていますが、なかなか野菜を「愛情込めて作っている」といいづらいのです。野菜である植物も自分の伸びたいように生長して、最後は次の子孫を残して自分の生命を全うしたいと考えている気がするからです。
私たち農家は、生産量が上がるように、効率よく作業ができるように野菜を矯正しながら育てているし、彼らが一番残したかった次の命の種をいとも平然と摘み取ってしまうのです。
人の感情からしたら残酷です。
命を食べているという意識
農家は多種の生命を絶って、人間という種の生命の維持に貢献するお仕事だと思います。
(ただ果樹は果実を多種の動物に移動してほしいと考えている生き物だと思うから果樹農家だけは若干違う気がします。)
高度に文明化された社会では、優しくなったせいなのか?機械化されシステム化されて、命を感じにくくなったせいなのか?慣れてないせいなのか?人間は多種の命を奪う事に心理的な抵抗を覚えます。
鳥だって、豚だって、牛だって、普通に食卓に並んだり、外食したりすれば普通に楽しんで食べているのに、それらの種の命を「自らの手で断つ」という場面に出くわしたとき、人はその行為をする事に躊躇します。
とても不思議であり、逆に残酷な事だと思います。
おそらく私たちが食べているものは、商品という「モノ化」されているもので、命を食しているという本質的な事を忘れてしまっているのではないでしょうか?
命を食べている意識というのは重要だと思います。食べているその命が生きて経験してきた膨大な情報ごと自分の身の内に入れるという事だと思うからです。
そういった意識で食べ物を食べた時に、自分の命は生きる力を蓄積していけるのではないかと想像しています。
すべての生命は生きるための知性がある
植物にも知性があるという事が最近の研究ではわかってきたみたいですし、虫だってとても知性が高い事は少し前から知られています。そんな生き物の命を断つのが農家だと思うので、誰かが嫌がる事だけど必要な事をしているとも言えます。
こういうややこしい事を考えてしまうから。野菜を愛情込めて作っているとか、野菜作りが好きとかなかなか言えないのです。その言葉に残酷さを見てしまう。
食べ物を作るのっておそらく、好きとか嫌いではなく、本能だと思います。(笑)
畜産でも、野菜や作物でも・・・。
本能的に、食べる物が目の前にあるのは、生きるために必要だし、美味しそうなモノを見るとドキドキするからじゃないかなと思っています。
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